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COLUMN#24 / 幸せの置き場 ― 外か、内か、語られない満ち足りの行方

  • 執筆者の写真: HugFor
    HugFor
  • 22 時間前
  • 読了時間: 7分

更新日:19 分前










先日、インスタグラムで「家族がごはんをつくって待っていてくれる、とても幸せ」といった、ありふれた投稿を目にした。特別な出来事ではない。日常のなかにある、よく知られた光景だ。それでも、その一文はなぜか心に引っかかり、しばらく頭から離れなかった。そこに悪意はない。むしろ、穏やかで、あたたかく、誰もが頷ける幸福の形だ。


だからこそ、その言葉が流れていく様子を眺めながら、私は立ち止まってしまった。なぜこの感情は、いま言葉にされ、外に置かれなければならなかったのだろうか、と。

その投稿を見て傷つく人がいるかもしれない、という話ではない。そうした想像を持つ以前に、もっと個人的で、説明しきれない違和感が先にあった。感じられているはずの幸せが「幸せです」という言葉に回収される、その一瞬のあいだに、何かが置き去りにされているような気がしたのだ。


家族がいて、食事が用意されている。その事実そのものよりも、それを言葉にし、文字に起こし共有するという行為が、私の思考を促した。幸せは、心にとどめるだけでは足りないのか。語られなければ、存在できないものなのか。そうした問いが、静かに立ち上がってきた。


前置きが長くなったが、今日はそんなことを綴りたいと思う。



SNSで頻繁に目にする「〇〇ができて幸せ」「〇〇で幸せ」という言葉に、私はときどき理由のはっきりしない違和感を覚える。それは妬みでも、拗ねでもない。ましてや、自分が不幸だからという単純な話でもない。むしろ、幸せという感情が、あまりに軽やかに、あまりに無防備に外へ差し出されていくことへの、小さな戸惑いに近い。


誰かの幸福の報告が、ある人にとっては救いになり、別の誰かにとっては刃になる。そのことを、私たちはもう痛いくらい、十分に知っているはずではないか。わかっているはずなのに「幸せです」という言葉は今日も流れてくる。


なぜ私たちは、それを言わずにいられないのだろうか。いつから「感じる」だけでは、足りなくなってしまったのだろうか。


幸せは本来、理由を説明する前に、身体が先に知ってしまう感覚で、もっと私的なものではないだろうか。例えば浅かった呼吸がわずかに深くなり、張ってた肩の力が抜け、世界の輪郭が少しやわらぐ。モノクロの世界にわずかでもカラフルに見えること。そうした機微の変化の総体を、私たちは幸せと呼んできたのではないだろうか。そこには、本来、観客は不在である。しかしながら、一度言葉にされた幸せは、感情であることをやめ、状態に近づいていき、形を、行き場を変える。


「私はここにいます」「私はうまくやれています」「私はみんなから遅れていません」そんな無言のメッセージが、意図せず付随する。もしそれを言わなかったら、私たちは何かを失ってしまうのだろうか。喪失されるのは、幸せそのものなのか、それとも、誰かの視線か。


もう少し分解したい。


それでは心にとどめるだけでは、なぜ足りなくなったのか。感情が浅くなったからではない。むしろ、感情があまりに揺らぎやすくなり、自分の内側だけでは確信が持てなくなったからではないだろうか。他者の反応によって、いま感じているものに輪郭を与えようとする。その行為は、共有というより確認に近い。


SNSは感情を扱っているようで、実際には「成果」を好む装置。本来、本人しか知りえない幸せは出来事として編集され、写真や短い文章に収められる。そこには反応がある幸せと、反応のない幸せ。その差は、感情の深さとは何の関係もない。それでも、反応のない感情は、なかったことのように扱われてしまう。沈黙のまま感じている喜びに、私たちはいつから耐えられなくなったのだろう。


沈黙は拾われない。語られない喜びは可視化されない。

そこには、「感じているだけでは存在できない」という奇妙な不安だけは存在する。だから人は、「幸せです」と言うのだろうか。

いかなる想像よりも、自身の透明になる恐怖のほうが、先に立ってしまうということか。



私は、感じた幸せを主観的に語る時には、意識的に言葉にブレーキをかけている。それは達観でも、美徳でもない。その言葉がいったん外に出た瞬間、私の手を離れ、別の意味を背負わされてしまう気がするからだ。感じているうちは、まだ私のものだ。説明も証明もいらない。ただ、確かにそこにあるという実感だけで満ち足りているのだ。


比較が苦しみを生むことを、私たちはみな、知っている。それでも比較をやめられない、優位性を求めるのは、比べたいからではない。比べられない状態が、不安だからだではないだろうか。「幸せです」という自己申告は、感情の共有というより、自身の生存確認に近いものなのかもしれない。どこに立っているのかを、相対的にでも把握していないと、足場が崩れてしまうからなのかもしれない。その過程で生じる無意識の加害性から、誰も完全には自由ではいられない。

ただ、自分を守ることに精一杯で、他者の沈黙にまで想像が及ばない。幸福の表明が、誰かの静けさを押しのけてしまうことがあるとしても、それは意図された暴力ではない。だからこそ、立ち止まる余地が必要なのだと思う。



語らない幸せには、別種の強さがある。

言葉にしないからこそ、評価されず、比べられず、奪われない。誰にも証明しない満ち方。説明できないまま、確かにそこにあるもの。語らないことは、逃げではない。過剰に可視化され、過剰に共有される世界のなかで、自分の感じたものを急いで差し出さないための、ひとつの選択だ。


SNSという場が、私たちに語ること、見せること、反応を受け取ることを促し続ける限り、「幸せ」という言葉は、これからも軽やかに流通していくだろう。それを完全に拒むことはできない。ただ、どの言葉を外に置き、どの感情を心にとどめるか。その選択だけは、いまも個人の手に残されているはずだ。


最後に、幸せの置き場は、時代とともに変化するのかという問いは続く。それとも、どれほど環境が変わっても、普遍的に、心の内に在り続けることができるのだろうか。


可視化され、共有され、反応を求められることが当たり前になったこの時代において、幸せは外に置かれるものへと姿を変えつつあるようにも見える。けれど同時に、誰の視線にも晒されない場所で、静かに息をしている感情が、いまだ失われていないことも、私たちは心と体で知っている。


それを言葉にしなくても、証明しなくても、比べなくても、確かに感じられる瞬間がある。もし幸せがいまもなお、心の内に留まり得るのだとしたら、私たちにできるのは、その居場所を奪わないことだけなのかもしれない。





当コラムは月に1-2回程度、ギャラリーに関連する活動を軸に執筆しています。お気楽にお読みいただけますと幸いです。

文、写真:HUG FOR_. Eriko.O



Eriko OKUYAMA

HUG FOR_. オーナー


大学卒業後、民間企業や外郭団体での勤務を経て、2016年からアート業界に転身。主に銀座、六本木、白金台、天王洲など都内の現代アートギャラリーにて展覧会の企画運営マネジメント、プロジェクトマネジメント、アーティストマネジメント、パブリックスペースのアートコーディネーションに従事。ライフワークとしては、芸術の社会的な役割を模索しながら障がいのあるアーティストの展示企画や実践研究に取り組んできました。鎌倉に移住後、地域交流や豊かな自然によって心身と暮らしが満たされていく実感と共に、改めて芸術の在り方そのものを再解釈し、自身とアーティストの自己実現へのチャレンジ、そして人々が真の幸福に向かう思考と体験を共有する場を創りたいという想いのもと、2022年12月にHUG FOR _ . を開業しました。

ギャラリーとして作品を販売し、運営を持続させていくことと、芸術が社会や人に対してどのように貢献し循環させることができるか、事業性と社会性の両輪の視点をもって活動をし続けています。ギャラリーやアートは、暮らしや私たちの内面にとても近い存在であると考えています。難しく考えずにお気軽に足をお運びください。​

・筑波大学大学院 博士前期課程 人間総合科学研究科芸術支援領域 修了

・修士論文「共生社会の実現に向けたアートを通した交流活動」筑波大学茗渓会賞 受賞

​・HUG FOR_. ホームページにて月に一度のコラムを連載


 
 
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