COLUMN#19 - 花火の憂鬱。 静かに祈り去る夜は。
- HugFor

- 7月13日
- 読了時間: 5分
更新日:7月14日
夜空に咲く一瞬の光。そのきらめきを美しいと思えない人がいる。私だ。
毎年夏になると、街は花火の音で賑わい、多くの人がその美しさに心を奪われ、夏の風物詩を楽しむ。
でも、私にとって花火の音は決して心地よいものではない。むしろ、身体が強く拒絶反応を示し心がざわつく。
今日はそんな少々ややこしい自分の感覚と向き合い、自分なりの受け止め方を見つけ綴ったコラムです。
去年も今年も花火大会のお誘いを断った。
あの音が鳴るたび、体が強張り呼吸が浅くなる。
胸の奥に突き刺さるような低い振動、逃げ場のない爆音に心がかき乱される。ただの音ではない。
異物が身体の奥に入り込んでくるようで、それは静かな場所を壊してしまう。
花火の夜が近づくだけで願うのは「今夜、静かでありますように。早く寝れますように。」
けれどその願いは無情に打ち消されて、一切の配慮なく、破裂音は連続して空に放たれ、人々は一斉に歓声を上げ、感嘆の声を響かせる。
街は熱気とその余韻に溢れる。
私は部屋の中で花火大会の終了時刻を検索し、「あと30分」「あと20分」と、終わりの時間を数えながらただじっと耐える。
この轟音が過ぎ去るまで、どうにか持ち堪えようと、自分に言い聞かせながら、ひとつ、またひとつと響く音に、反射的に肩がすくみ顔がゆがむ。
誰かにとっては美しい光も、重たくのしかかってくるものだ。
周囲やSNSもまた騒がしく、一辺倒にその綺麗さや感動を伝えてくる。
楽しそうに笑う声が聞こえてくるその裏で、私は素直に共感することもできず、それでも「そういうもの」として静かに通り過ぎ行くのを待つ。
いつからだろう。
花火大会といえば、浴衣を着て、慣れない下駄を履き、鼻緒が擦れて歩きづらそうにしながらも、好きな人と上機嫌で下町に出かけては、綺麗だと素直に空を見上げた淡い日のことを想い出す。
子供の頃も自宅のベランダから目の前に打ちあがる大きな花火を見ながら、いつもより少し豪華な食事が並んで気持ちが昂揚したり、家に人が集まったりと、イベントの日だった。
ありきたりだけど、そんな風にして夏や花火大会を人並みに楽しむことができていたのだ。花火は楽しむべき「当たり前」のものだった。
実はここ数年、聴覚感覚が過敏になり日常生活に支障をきたしている。
耳鼻科を受診しても、鼓膜や内耳には異常は見られず、神経内科では、強迫的な傾向が指摘された。神経が過敏に反応しやすい体質なのかもしれないと、神経の過活動を和らげる薬が処方されたが、効果は残念ながらあまり感じられなかった。
今年もまた、あの轟音が街に鳴り響く季節が来た。
底しれない憂鬱な気持ちを抱えながらも、せめて「花火」というどうにもならない相手の存在について少し調べてみようと思った。
現代のあの眩しく派手で、お祭りごとのような娯楽の裏に、意外な起源があることを知った。火薬という危険な技術の発明は、やがて「祈り」や「鎮魂」のかたちとして花火へと転化されたという。
爆竹は悪霊を追い払い、夜空に放たれた火は、亡き人への想いを空へ届けるための「灯り」となった。
江戸の町では、疫病や災厄を鎮めるために、隅田川の上空に花火を上げたとされる。その刹那の光に込められたのは、派手さではなく、命を繋ぎ、喪失と向き合うための祈りだったのだ。
それから祖母が生前、「花火の音は空襲とよく似ている」と話していたことを思い出した。
私は祖母から、何度も東京大空襲の話を聞いていたた。
今でも、戦争体験者の中には、あの音が当時の爆撃を思い出させ、苦痛に感じる人も少なくないという。直接の記憶を持つ人は減りつつあるが、その記憶や感覚は、家族や地域を通じて確かに受け継がれている。
そして、こんなふうに静かな部屋で文章を書いている今も、地球のどこかでは、花火ではない爆音が、日常のように響き続けていると思うと哀しい。
私は、やっぱりあの強烈な責め立て来るような音が苦手だ。
それは変わらないと思う。でもその背後にある物語や、遠い誰かの願いを知ったとき、ほんの少しだけ、世界との距離が優しくなった気もした。
好きになれなくてもいい。
無理に近づかなくていい。けれど意味を知ることで、「自分と関係のないもの」ではなくなるかもしれない。苦手なものの中にも、誰かの祈りや歴史が宿っていることがあるのだ。
それを知ることは、やけに傷つきやすい自分を守りながらも、世界に静かに参加していくことなのかもしれない。
そう、いつまでも、どこまでいっても自分のことは自分で自分守る。
だからといって、あの音が平気になるわけではないし、意味を知ったからといって、身体の反応は変えられない。
それでも、ほんの少しだけ自分を責めずにやり過ごせるようになった気がしている。
でも、やっぱり――
去年も今年も花火大会のお誘いを断った。
静かな場所で、静かな夜を選ぶ。
楽しそうな声が聞こえても、その中に自分の居場所はない気がしてしまうからだ。
自分の感覚を尊重するささやかな選択だ。
断った後には、少しだけ心が軽くなった。自分を大事にできた気がして、ほっとしたのだと思う。
背景を知って改めて別のことをふと思う。
丁寧に皆の祈りを込めた、ほんの数分だけの花火が1つ、2つあればもう少し情緒ある、ひと夜になるだろうにと。
当コラムは月に1-2回程度、ギャラリーに関連する活動を軸に執筆しています。お気楽にお読みいただけますと幸いです。
文、写真:HUG FOR_. Eriko.O



コメント