COLUMN#20 - 夜の帳。記憶は忘れるための祈り、想像は祈りを呼び戻すために。
- HugFor

- 10月7日
- 読了時間: 4分
更新日:10月11日
10月。曇りのち、雨。奈良。夜。
ピアニスト横山起朗さんのライヴツアー「SHE WAS THE SEA」。
ツアータイトルにもなっている「SHE WAS THE SEA」という曲は、“記憶”の曲だった。
ピアノのそばに映し出された写真家 山口明宏さんの映像は、海のようでいて、海ではなかった。
寄せては返し、沈んでは浮かび、光っては陰るその光景は、記憶そのものだった。
このコラムでは、音と映像のある空間体験と、日々自身が巡らせる事柄の重なりを通して、その瞬間の素直な気持ち、そして少しの時間を経た気持ちの変容を綴りたい。
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「SHE WAS THE SEA」は、誰かと別れても、不在ではなく、海に在ることを想って作った曲だと、横山さんは話していた。
率直に、記憶に対して優しい捉え方だと思った。記憶が単なる過去のものではなく、現在進行形で感情や存在を抱き続ける場所として、海を選んでいた。不在を肯定してくれる。
他方で、記憶とは、薄情なものだと常々思う。
しかし、時に人を優しく包みこみ、勇気をくれるものでもある。
だから私たちは、好きな人や美しい出来事の断片を少しでも残そうと、写真や映像を撮るのだろう。誰もがこの世界を記録したがるのだろう。
ところがいつしかその横顔を見て、または自分を振り返り、言葉にできない靄のかかったような気持ちの違和を覚える。
私たちは何をそんなに残し、写したがっているのかと思うようになった。
ある写真家は、風景を撮るのは風景を撮っているのではなく、時間を写すためだと言っていた。
また別の写真家は、目では見えない現象を捉えられることに価値があると言っていた。
私はといえば「忘れるため、思い出すだめ」に記録しているのだと思うようになった。
心理学には例えば、写真を撮ると記憶の定着率が下がるり、脳が「記録はカメラに任せればいい」と判断し、細部を覚えようとしなくなるのだという。
最近、カメラが壊れ、スマートフォンも壊れたことをきっかけに、写真をあまり撮らなくなった。流れ流れる日々の中で大切だと思う時間や人との記憶ほど、脳に直接刻みつけたいと思うようになった。それは、情動的な体験を、外部に依存させたくないという本能的な欲求なのだと思う。
想像もまた、不確かで身勝手なものだと常々思う。
想像の時間に陥るとき、ある種の自由な嫌悪を感じることがある。私は無意識に、いつでも作品や表現、そこに至るまでの想いや背景を知りたがるが、例えそれらを甘受したとしても、完成されたものを目の前にしても、たまたま居合わせた私は、結局は想像を重ねることしかできない。
そしてまた身勝手に何かを受け取った気になって満たされる。その一方で、どこまでも分かり合えないという世界線で、疎外感や切なさに近い湿った感覚も持ち帰ることになる。
記憶とは、忘れるための祈り。
想像とは、もう一度その祈りを呼び戻す行為。
私はなにかに触れるとき、必ず取り留めのない、底の知れない、面倒くさい想いを巡らせている。
矛盾だらけで、綺麗な言葉でもない。
曖昧なあやふやな記憶と、いみじくもな想いを連続させている。
それはそれは、説明できないもどかしい時間だ。
それでも、たしかに存在と不在、想像や記憶の境界が溶け合う情景が静かに浮かび上がる瞬間はある。その時だけは、疎外も孤独も、寂しい気持ちも、この上なく美しい光に変わる。
海でなくてもいい。そこに美しさがなくてもいい。光も闇も、どちらでも構わない。
誰かにとって記憶は温もりであり、想像は愛や赦し、もしくはただの静けさである。
私にとっての海、いや、記憶の仕舞い先は、まだ名前のない、めぐりの途中だと思った。
とにかく苦しい記憶と想像に囚われるのではなく、心からの喜びや幸せを、無邪気な子供のように素直に抱きしめ、ただ味わえばよいのだ。
旅は漂泊の感情を生むという。
短い旅の終わりの帰り道、懐かしい記憶をたどりながら、たった一粒の涙を流すこともできずに、ただただ心が叫んでいた。
当コラムは月に1-2回程度、ギャラリーに関連する活動を軸に執筆しています。お気楽にお読みいただけますと幸いです。
文、写真:HUG FOR_. Eriko.O




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