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COLUMN#23 / 逢声 aisei ― 感性と知性が交わる、もうひとつのギャラリー

  • 執筆者の写真: HugFor
    HugFor
  • 1 日前
  • 読了時間: 7分

更新日:1 日前






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コラム#23は来年の春頃、HUG FOR_. の展示スペースに隣接する小さな部屋にひっそりと構えることにした、「逢声 -aisei-」についてお伝えするものです。


これまでインスタグラムのストーリーズで、本や音に対して、飾り気のない心情や価値観を気まぐれに掲げてきました。それに静かに受け取り関心を寄せてくださる方が増えてきたいま、その流れと、長く持て余していたこの小さな空間がをようやく結びつけることができました。


「逢声」は、本屋やレコードショップのように「物を売る」ということを目的にするよりも、飽くなき探求と概念に出逢う場として設けます。ここでは、時代を越えて残された作家たちの言葉=「声」や、音を通じて私たちに「声」を届けと音に出逢い、言葉、気持ち、音、空間といった、私たちの内側と外側をつなぐ要素を静かにペアリングし、他者ではなく、自分自身と静かに内省するための、もうひとつのギャラリーです。 それは、これまで積み重ねてきたアートギャラリーとゆるやかにつながり、そこへの経路になるような場所でもあります。



私たちがもどかしさを感じるとき、気持ちに靄がかかり言葉にしようとしても輪郭が定まらないとき、その多くは、明確に言語化できない、不確実性の中に身を置いている状態にあるのではないでしょうか。


少なくとも私は、感情は確かにそこにあるのに、その実態が掴めない、わからない。「なぜそう感じるのか」「そうじゃない、違う」。その宙づりの状態が、思考を滞らせ、徐々に気持ちが疲弊していくことを自覚している。


長く、アートの仕事をしていると、アートがもたらす感性の刺激は豊かで、時に言葉を超えて、私たちの深い部分に触れる力を持っている。他方、アートとの触れ合う時間が少ない人たちからしてみると、アートは複数のバイアスを含み、いくつかのステップを踏まなければ、思考に到達しづらい側面もあることを感じる。


例えば、作品の前に立った瞬間、「何を表現しているのだろう」「この難解な解説文を読まなければ理解できないのではないか」と感じてしまう知識や文脈のバイアス。


また、高額な市場価値や歴史的な権威が、純粋な感情の揺れ動きより先に立ってしまう権威のバイアスもある。


作品の持つ豊かさまで到達するには、こうしたバイアスを乗り越えた上で、自身の経験と照らし合わせ、「なぜそう感じたのか」と深く内省するステップが必要となる。そのプロセス自体はとても尊いが、ある意味、心構えのようなものや、もともとの心のゆとりがない状態でないと、美術館やギャラリーに足を運ぶ機会は減り、自身が靄の中にいるときには、どこか遠い「教養」や「課題」のように感じてしまう。それが良くも悪くも現代のアートと人間の距離間なのではないだろうか。


一方で、言葉はどうだろうか。 かつての教養や知識を携えた作家たちが紡いだ言葉に、ふと出会った瞬間、「これだ」と感じることがある。説明されていないのに、理屈を積み上げられたわけでもないのに、すっと、身体の内側に入ってくることがある。会ったこともない作者と、本の中では対話することができ、さらに共鳴できた喜びは大きい。そして不確実だった自分の価値観や姿勢に自信がもてるようになる。


アートが鑑賞者自身に「言語化の努力」や「文脈の理解」を促しがちなことに対し、言葉はすでに凝縮された形で本質を提示し、読み手の感情と即座に共鳴する。本や詩集は、美術館のような権威的な場所を必要とせず、私たちの最も個人的な空間や生活圏で出会えるため、心理的なバイアスが生じにくいと思う。


私は、うまく自分の状態を言語化できないでいる自分に遭遇するたび、それが強迫観念のトリガーとなる。


強迫観念はいくつかパターンがあるが、私の場合は「うまく言語化できないもどかしさ」「解決できないもどかしさ」が蓄積されたとき、日常生活に支障をきたすほど、確認作業に明け暮れることがあった。その解決の手段として、本を頼りにすることがごく自然に増えていった。他者との対話ではこの強迫観念は拭えないと本能的に感じたのと同時に、本来の目的がそのやり取りでは喪失するとわかっていたからだ。


そんなとき、本を読むということは、私にとっては宝探しであり、「すでに智慧のある誰か、先人がこの状態をうまく言葉にしていないだろうか」と、自己の「もどかしさ」や「靄」の輪郭を言語によって確認する作業が処方箋になってくれた。


だから途中で読むのを辞めてしまうこともあるが、言葉とは、ときにいくつかの思考のステップを省略し、感性と知性のあいだを、最短距離で結ぶものなのかもしれない。展覧会のために読み込んだ参考文献もあれば、行き場のない気持ちを抱えたまま探し当てた詩集や哲学書もある。答えが欲しいのではなく、問いを持ち続けるための言葉。

ただ、言葉は時に、感情の境界を明確にしすぎるあまり、すべてを囲い込んで気持ちを窒息させてしまう側面があることにもふと気づく。私たちの感情は、必ずしも言葉のフレームに収まりきるほど単純ではないということは心に留めておきたいとも思う。


そして、もう一つ、もどかしさを感じるときに、言葉のフレームに窒息しそうなとき、未だ輪郭の定まらない感情そのものを引き受けてくれるもの、それが心地よい音の存在がある。


言葉が知性と感性のあいだを往還し結ぶなら、心地よい音は、言葉になる前の感情の深い部分に直接触れ、その感情を否定することなく、ただ「そこにある」ことを許容させてくれるもののように思う。音は、知識や解釈のステップを求めず、ただそこに在るだけで、内側の靄を鎮めてくれる。それはすべての音や音楽に通ずるわけではなく、そこに作者や演者からの「声」が響いたときに感じる。上質な音は、自然と深層に潜り込む手助けをしてくれ気がするのだ。


「声」の宝探しをし、出逢う時間と空間に「逢声 -aisei-」という名前を付けた。


感性と知性。アートと言葉。過去と現在。


それらが交差する地点に、内省すること、過去を見つめること、そして未来の豊かさを探るための、ひとつの経路を加えたいと思った。


来年は、あくまでプレとして実験的に、小さく始められればと思います。長く持て余していた小さな部屋が、ようやく呼吸を始めるような感覚とともに、小さな楽しみをしばらくお待ちいただけますと幸いです。




当コラムは月に1-2回程度、ギャラリーに関連する活動を軸に執筆しています。お気楽にお読みいただけますと幸いです。

文、写真:HUG FOR_. Eriko.O



Eriko OKUYAMA

HUG FOR_. オーナー


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大学卒業後、民間企業や外郭団体での勤務を経て、2016年からアート業界に転身。主に銀座、六本木、白金台、天王洲など都内の現代アートギャラリーにて展覧会の企画運営マネジメント、プロジェクトマネジメント、アーティストマネジメント、パブリックスペースのアートコーディネーションに従事。ライフワークとしては、芸術の社会的な役割を模索しながら障がいのあるアーティストの展示企画や実践研究に取り組んできました。鎌倉に移住後、地域交流や豊かな自然によって心身と暮らしが満たされていく実感と共に、改めて芸術の在り方そのものを再解釈し、自身とアーティストの自己実現へのチャレンジ、そして人々が真の幸福に向かう思考と体験を共有する場を創りたいという想いのもと、2022年12月にHUG FOR _ . を開業しました。

ギャラリーとして作品を販売し、運営を持続させていくことと、芸術が社会や人に対してどのように貢献し循環させることができるか、事業性と社会性の両輪の視点をもって活動をし続けています。ギャラリーやアートは、暮らしや私たちの内面にとても近い存在であると考えています。難しく考えずにお気軽に足をお運びください。​

・筑波大学大学院 博士前期課程 人間総合科学研究科芸術支援領域 修了

・修士論文「共生社会の実現に向けたアートを通した交流活動」筑波大学茗渓会賞 受賞

​・HUG FOR_. ホームページにて月に一度のコラムを連載


 
 
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