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Column#27 - たとえば花と珈琲と対話。- 言葉になる前のちいさな合図があったなら。

  • 5 時間前
  • 読了時間: 6分




子どもの頃、仲直りするときには握手をしていた。


悪いことをしたら「ごめんね」

心から謝られたら「もういいよ」


そんな風にしてきた。


大人になったらいつの間にか、ごめんねも、もういいよも言いにくい体質になっていた。


子どもも大人も、あのシンプルなやりとりがすんなりとできれば、今よりももう少し穏やかでいれるのにと、ふと感じることがある。


素直になれない大人たちのための仲直りの合図なんかがあればいいのにと。


今日はそんなことを綴りたいと思います。




喧嘩、対話、仲直り。


それらは断絶しているものではなく、人が人との関係をもつするためのリズムのようなもの。


関係とは完成されるものではなく、更新され続けるもの。


喧嘩も食い違いも、沈黙も対話も、その更新のための過程にすぎない。


分かり合うとは、急がずに、ずれを抱きしめ続けること。

近づくからぶつかり、ぶつかるから離れ、また触れ直す。

その往復のなかで、関係は少しずつ姿形を変えていく。


私は人との摩擦に対する恐れや、それを避けようとする概念があまりない。違和や揺らぎを抱え込むよりも、本音を差し出すほうを選んできたし、これからも変わらないだろうと今は思う。そして人には、言葉にしなければ触れられない領域があることを知っているし、言葉にしても響かなければ無情にも”無いもの”になってしまうことも繰り返し痛いほどに感じてきた。



喧嘩とは、破壊ではなく露呈だとも思っている。普段は沈んでいる感情や期待が、衝突というかたちで表面に現れる。そこには甘えや未熟さも混じるし、そんな時にでる言葉は自分でも嫌になるほどに鋭くなりすぎる。


それでもなお、ぶつかるという行為の奥には、信頼やつながり、関係を手放したくないという熱と意志が潜んでいる。対極にある静かで確実に関係を終わらせる冷たい無関心とは、まったく別ものだ。


とはいえ、本音はただ差し出せば届くわけではないから厄介だ。それは温度と重さを持ち、相手の内側に触れるとてもセンシティブかつ、高度なコミュニケーションだ。届けたい揺れがすぐに言葉になるとも限らないし、言葉にするまでに時間がかかる人もいれば、言葉という形式そのものに少し遠い人もいる。


対話を重ねているはずなのに、分かり合いたいはずなのに「ちがう、そういうことではない」「なんで分からないのか」という苛立ちや複雑な感情、同じ言葉でもその奥にある景色は異なるから、かえって距離を広げてしまうことがしばしばある。だから本音を差し出すということには、対立の可能性と同時に、反射的に発した言葉に宿る意味のずれ、見ている風景の違い、価値観に対する固持、保身が孕んでくるから想像以上のエネルギーがかかる。


分かり合うとは、正確に一致することではなく、お互いがどのような場所から言葉を発しているのかを、時間をかけて知っていくことなのだと思う。言葉の手前にある沈黙や、言葉にならなかった感情に触れていくこと。だからこそ、怒りに対する扱いは繊細である必要もある。怒りはしばしば、正しさや主張の形をして現れるけれど、その熱が強すぎると、相手の心の扉は閉じてしまうし、届くはずだった言葉さえ届かなくなる。そして時間と共に熱も怒りも関心も薄れ、怒りは悲しみへと変容し、やがてあの熱い熱は消失する。とても寂しいことだ。



他方、たとえば歩くこと、走ること、書くこと、ひとりで抱える時間を持つこと。相手のことを想う時間。


そんなさまざまな行為を通して輪郭を整えたあとに差し出される言葉は、平静で、しかし相手の心の深淵まで届く。だから時間をかけて自分と相手との対話を重ねて出てきた言葉は、何よりも本当の意味での本音だと思う。


つまり対話とは、言葉を多く交わすこと以上に、速度の違いや沈黙の長さを引き受けることが重要だと思う。一方通行にならないために必要なのは、本音を持つ強さだけでなく、待つことのできる余白や落ち着きなのかもしれない。すなわち対話するということは、言葉を交わす数時間の出来事ではなく、何日も、あるいはもしかしたら何年も相手や自分と向き合うことかもしれない。



そして、仲直りだが、それは「元に戻る、修復する」ことではないと思う。ひびの入った部分をなかったことにするのではなく、そのひびごと関係を引き受け直すことだ。それは以前よりも脆いかもしれないけれど、以前よりも正直な形で、見方を変えれば以前よりもずっと強固なものだと私は思う。



大人になると、子供の頃のように「ごめんね」という真っ直ぐすぎる言葉ひとつでは、届かないこともある。握手をしても触れ合えない、分かりあえないこともある。素直になれない大人たちには、もう少し遠回りで、やわらかな合図のようなものがあればいい。


たとえば赤い花をそっと手渡したり、言葉の代わりに同じ飲み物を差し出すように。あるいは、相手の好きだった音楽を静かに流すような。


仲直りの前には、言葉にならない層が必ずある。そこに触れるための、小さな儀式のようなものがあればいいと思う。


それは素直になれない大人のための、優しい対話へ戻るための、静かな、長い長い橋。


分厚くて硬い壁に小さな穴を開けるような。


ああなんだか、そんな話しをゆっくりと誰かとしたい。





当コラムは月に1-2回程度、ギャラリーに関連する活動を軸に執筆しています。お気楽にお読みいただけますと幸いです。

文、写真:HUG FOR_. Eriko.O



Eriko OKUYAMA


大学卒業後、民間企業や外郭団体での勤務を経て、2016年からアート業界に転身。主に銀座、六本木、白金台、天王洲など都内の現代アートギャラリーにて展覧会の企画運営マネジメント、プロジェクトマネジメント、アーティストマネジメント、パブリックスペースのアートコーディネーションに従事。ライフワークとしては、芸術の社会的な役割を模索しながら障がいのあるアーティストの展示企画や実践研究に取り組んできました。鎌倉に移住後、地域交流や豊かな自然によって心身と暮らしが満たされていく実感と共に、改めて芸術の在り方そのものを再解釈し、自身とアーティストの自己実現へのチャレンジ、そして人々が真の幸福に向かう思考と体験を共有する場を創りたいという想いのもと、2022年12月にHUG FOR _ . を開業しました。

ギャラリーとして作品を販売し、運営を持続させていくことと、芸術が社会や人に対してどのように貢献し循環させることができるか、事業性と社会性の両輪の視点をもって活動をし続けています。ギャラリーやアートは、暮らしや私たちの内面にとても近い存在であると考えています。難しく考えずにお気軽に足をお運びください。​

・筑波大学大学院 博士前期課程 人間総合科学研究科芸術支援領域 修了

・修士論文「共生社会の実現に向けたアートを通した交流活動」筑波大学茗渓会賞 受賞

・現在は一橋大学にて社会学を専攻しています

​・HUG FOR_. ホームページにて月に一度のコラムを連載


 
 
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