COLUMN#13 - 生者と死者がつながる時。- 記憶と未来をつなぐ音との出会いを求めて。
- HugFor
- 3月2日
- 読了時間: 4分
亡き人を想うとき、私たちは何を受け取っているのだろうか。
ふとした瞬間、
何気なく目を向けた先に、かつて親しかった人の姿や面影が幻のように感じることがある。
錯覚だと理解していても、心の中ではその人と対話しているような感覚に陥るのはなぜなのだろうか。

ここ最近は、生前に親しかった故人を思い出すことが増えた。
日常の中で、意識せずとも記憶が呼び起こされることがある。
そのきっかけの多くは、音、音楽。
例えば、カフェのスピーカーから流れてくる曲。初めて聴くはずのメロディが、記憶の中の何かと溶け合い、懐かしさを超えた特別な意味を持ちはじめることがある。
また、演奏会でふと心に触れる一曲が、故人の存在をそっと呼び戻すこともある。
その瞬間、私は静かにその訪れを察知し心の中で故人との対話を始める。
その時間は、単なる寂しさや感傷ではない。
涙が出ることはあるが、それは冷静で穏やかであり、故人がこの世にいないという現実を確かめながらも、過去に交わした会話や共に過ごした時間を再び辿っている"しるし" 。
そんな風に、知らず知らずのうちにその時間に遭遇し記憶を馳せることが、今の自分にとって大切で必要な瞬間のような気がしている。

だからなのか、死者との対話をテーマにした本を手に取ることが多くなった。
その中の一冊、森岡正博氏の『生者と死者をつなぐ』には、こんな視点が示されていた。
生者が亡き人を想うことで「鎮魂と再生」のプロセスが生まれる。 つまり、故人とのつながりは、生者の側において常に再構築され、過去と現在を結びつける役割を果たすということ。
ではなぜ、私たちは故人を想い続けるのだろうか。
親しい人や家族、災害や事故、戦争で亡くなった人を悼み、偲び、弔うのだろうか。
その答えの一つには、記憶の中にあるように思う。
「忘れない」ということは、その人の存在を私たちの中にとどめる行為であり、それは単なる懐古ではなく、現在を生きる私たちに影響を与え続けるものである。
亡き人の言葉、振る舞い、価値観が、今の私たちを形作っているものの欠片であるとするならば、彼らは今も私の中で、あるいは隣りで生きていると言えるのかもしれない。
亡き人を想うということは、森岡氏の言葉を借りるとすると「絶望のその先」にある何かを示唆している。
強く励ましてくれた人、どんな時も味方でいてくれた人 —— 彼らとの心の対話が、私たちを支え続けている。
そう思うと、寂しさや悲しみではなく、決して消滅したわけではない亡き人との対話に、ある種の熱や温かさ、前を向く気持ちを感じることに納得ができる。
喪失は瞬間的な衝撃や、生涯の深い悲しみを伴うが、遺された私たちに何かを託すような側面をもつ。
記憶の中で彼らと再会するたびに、私たちは大切なものを受け取っている。
故人の言葉や価値観は、私たちの中に受け継がれ、現在の自分を形作る一部と考えると、亡き人との対話は単なる追憶ではなく、生者としてひたすらに生き続ける意味や、これからの人生をどう歩んでいくかという指針であるかもしれない。
「人は二度死ぬ」という考え方がある。
一度目は肉体の死、二度目は記憶の死。
誰もその人を思い出さなくなったとき、本当の意味で死が訪れるのだという。
つまり、私たちが記憶を紡ぎ続ける限り、彼らは今も生きている。
たとえば、音楽を聴きながら記憶を辿り、亡き人に想いを馳せる時間。
その後、不思議と満たされた気持ちになるのは、前述した通り、対話が単なる回想ではなく、今を生きる力へと昇華されるからだと考えると、私にとって音とは、記憶と未来をつなぐものなのだろう。
生きている間、亡き人と再会するような音にあと何度出会えるだろうか。
亡き人を想うとき、私たちは何を受け取っているのだろう。
そして、亡き人は何を投げかけるのだろうか。
私にできることは、彼らが二度目の死を迎えないことを願うだけである。
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参考図書:『生者と死者をつなぐ―鎮魂と再生のための哲学』 / 森岡 正博
当コラムは月に1-2回程度、ギャラリーに関連する活動を軸に執筆しています。お気楽にお読みいただけますと幸いです。
文、写真:HUG FOR_. Eriko.O
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