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COLUMN#16 - 美しさのしるし。美は暮らしの中に — フォークアートの優しい手ざわり

  • 執筆者の写真: HugFor
    HugFor
  • 5月18日
  • 読了時間: 7分

更新日:5月19日


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「誰もみな善い美しいものを見たときに、自分もまた善くならなければならないと考へる貴重な反省。

最も秀れた精神に根ざしたものは、人心の内奥から涙を誘ひ洗ひ清めるのである。」/ 北原白秋



白秋のこの言葉を読むたびに、「美」に触れることの本当の意味を思い出します。それは単に目を楽しませるものではなく、私たちの心の奥底に静かに届き、何かを問いかけ、整え、浄めてくれるもの。まさに、今回のコラムのテーマであるフォークアートが持つ本質と重なるように感じられたのです。



こんにちは。


新緑がまぶしく、風に初夏の気配が感じられる頃となりました。梅雨の走りのような雨模様の日もありながら、晴れ間には強い陽射しや紫陽花の蕾が顔をのぞかせ、街の景色も少しずつ夏の装いに変わっていくのを感じます。



さて、今回のコラムでは、現在開催中の庄島歩音さんの展覧会「あける」に関連して「フォークアート」について綴りたいと思います。


展覧会を開催するにあたって、庄島さんをご紹介するプロフィールでは

「フォークアートに影響を受け、身近な動植物を鮮やかな色彩と伸びやかな筆致で表現。国内外での展示のほか、パッケージのアートワークを手掛けるなど幅広い分野で活動。」

とあります。庄島さんの作品のファンの方にとってはおなじみの表現かもしれませんが、今回初めて彼女の作品に触れる方にとっては、「フォークアートってどういうことだろう?」と、ふとした疑問が浮かぶのではないでしょうか。



フォークアートとは?


フォークアートとは、一言でいうならば、芸術教育を受けていない一般の人々が、自らの暮らしの中で自然に生み出してきた造形文化を指します。地域の風土や信仰、生活に根ざした感性から紡がれた手仕事や装飾。それは、名もなき人々の手によって育まれてきた“日常の中の美”とも言えるものです。


フォークアートの正確な起源をたどるのは難しいですが、その歴史は古代まで遡ります。例えば農民や職人が道具や住まいに施した装飾や、祭礼のために作られた布や彫刻などが、その始まりとされています。そしてフォークアートの特徴としては、以下のような点が挙げられます。


  • 実用性と美の融合(家具、衣類、祭具など)

  • 地域固有の素材や技法の使用

  • 宗教的・精神的な意味合い

  • 技巧よりも、自由で素朴な表現性


ヨーロッパでは17〜18世紀頃から、教会や王侯貴族の美術とは対照的に、農村部や民衆の中で独自に発展してきました。たとえば、ポーランドの紙の切り絵「ヴィチナンキ」や、ノルウェーの花模様の装飾「ローズマリング」などがよく知られています。


19世紀になると、民族主義やロマン主義の潮流の中で、こうした民衆の造形文化が再評価されるようになります。生活の節目や儀式の中で使われてきた装飾品や図像は、その土地の精神や歴史を映すものとして、博物館で収集・研究の対象になっていきました。

アメリカでは、移民によって持ち込まれた技術やデザインが新しい土地で融合し、ペンシルベニア・ダッチのキルトなど、独自のフォークアートが花開いていきます。



美術としてのフォークアート


20世紀初頭には「プリミティブ・アート」や「アウトサイダー・アート」といった概念(フォークアートと混同されることもありますが、異なる文脈と歴史を持つ美術の概念)と交差しながら、フォークアートが“アート”として再認識されるようになっていきます。ピカソやカンディンスキーなど、当時の前衛的な芸術家たちは、伝統や技術にとらわれないフォークアートの自由な表現から影響を受けていたようです。各国でフォークアート・ミュージアムが設立されるなどして、その保存と紹介が進み、今日に至るまで広く親しまれていきます。



現代におけるフォークアート


現代では、グローバル化やデジタル技術の発展により、フォークアートは伝統と革新の狭間に存在しています。他方、自己表現の一つとして再評価され、エスニックファッションや手工芸品、祭事などの形で、今も人々の暮らしの中に息づいています。


日本においては、大正期(1920年代)の「民藝運動」がフォークアートに通じるものとして重要です。柳宗悦を始めとする人々が、民衆の生活の中に宿る美を「用の美」として見出し、陶器、こけし、藍染などの手仕事を再発見、保存しました。私たちの生活の中にも、そんなフォークアートの精神は知らず知らずのうちに自然と根づいているのかもしれません。そこで今も昔も最も重要なのは、フォークアートが「生活に根ざした美」であるということ。美は特別な場所に飾るものではなく、毎日の暮らしの中で、触れ、使い、祈り、願うもの。それがフォークアートの本質であると言えます。




庄島歩音さんとフォークアート


HUG FOR_. で展示している庄島歩音さんは、イギリス留学中に出会ったフォークアートの世界に心を動かされたそうです。名前も知られていない誰かの手が、身の回りの素材と向き合い、祈るように生み出した造形や色彩。その素朴でありながら力強い美意識に深く共鳴し、それが今の作品制作へと緩やかにつながっているのだろうと思います。


庄島さんが描く鮮やかな色彩、伸びやかな筆致、そして動植物の命の気配を優しく、尊重する眼差しで見つめていることを感じさせる画面には、どこか懐かしく、けれど新しい柔らかな風が吹いています。その背景には、フォークアートの持つ“誰かの暮らしから生まれた美”という根源的な魅力が、静かに、そして確かに息づいているように思います。彼女の作品が広く多くの人々に受け入れられ、愛される理由がとてもよくわかります。





フォークアートと「善い美しさ」


フォークアートは、前述した通り、特別な訓練を受けた芸術家ではなく、市井の人々、名もなき誰かの手によって、生活の中から自然と生まれた表現です。それは決して豪奢でも洗練された技巧でもないかもしれませんが、だからこそ、真っ直ぐで、偽りのない美しさを湛えています。


そこで私は、ふとコラムの冒頭に書いた白秋の詩が語る「善い美しいもの」とは、まさにこのような、日常の中で育まれた、誠実な美しさであるのではないかと思い浮かべました。


フォークアートの多くは、祈り、祝福、感謝、そして生きることそのものへの肯定といった「善き願い」を内包しています。農具や衣装、器に込められた模様や色彩は、暮らしを少しでも豊かに、明るくしようとする人々の心の現れであり、その純粋で素朴な精神こそが、見る人の心にしみ込むような感動や親しみを与えます。




人の心を「洗ひ清める」美


白秋は「最も秀れた精神に根ざしたものは、人心の内奥から涙を誘ひ洗ひ清める」と述べています。技巧ではなく、精神。つまり「どんな思いでつくられたか」にこそ、本当の美しさの根源があるとするこの言葉は、まるでフォークアートへの賛辞かのように、通じるものがあるように思います。


人々の生活から生まれたフォークアートに触れた時、なぜか懐かしさや暖かさを感じ、自分もまっとうに、誠実に生きたいと思うことがあります。また心がすっと清らかになるような、それはまさに白秋の言う「貴重な反省」であり、美が人の内側に働きかけ、心を整える作用がそこにあるからだと思うのです。


もっと言うならば、美しいものや善い行いに触れたとき、それは自己成長の原動にもなるという教訓も含まれているのではないでしょうか。


今回の展示「あける」は、庄島さんの美しい表現や視点はもちろん、フォークアートの純朴で穏やかな精神が響きあう場となっています。


ぜひ会場で、その空気を感じ取っていただけたら幸いです。ギャラリーでお会いできるのを楽しみにしております。





フォークアートとファインアートの比較については次回のコラムのテーマにしたいと思います。最後までお読みいただきありがとうございました。



当コラムは月に1-2回程度、ギャラリーに関連する活動を軸に執筆しています。お気楽にお読みいただけますと幸いです。

文、写真:HUG FOR_. Eriko.O


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